寒いけれど、海っ☆

2010年1月18日 月曜日職員ブログ


 

久しぶりのブログです

毎日「寒いですね~」が口癖になるくらい、年明けから冷え込む日が続いていますね

それでも、子どもたちは園の中では素足 元気いっぱいです

先日、調理保育の買い物をするため、らいおん組さんと一緒に近くのスーパーへ行ったのですが、子どもたちは手袋もせず、待っている間公園にいたのですが、素手で遊んでいて・・・私には耐えられませんでした。まさに、子どもは風の子、大人は火の子ですね

 さてさて。寒いけれど南国の写真を投稿します

一番近いアメリカ、サイパンに行ってきました。(あ、横田基地のほうが近いですケド

ますは、グロットというダイビングポイントでの写真です

 

崖っぷちにできた天然のプール(左:上からの写真右:水の中から見上げた写真)。

水深22mにある3つの横穴から外洋に出られるようになっていて、外洋から差し込む光が幻想的なブルーの空間を造りだしていて・・・とてもキレイでした。

  

 

 

海の中もキレイです

きれいな海を求めて、車の荷台にのせてもらい移動中の写真

 

 


 

  今回はきれいな風景からは想像できないような、日本と関わりの深いサイパンの歴史について書きたいと思います

 スペインの統治時代(チャモロ民族のほぼ全員がグアムに強制移住させられたという)が長く続いた後、スペインが弱体化し、ドイツに売却(1899年)。その後、第一次世界大戦が勃発、日本も参戦。

勝利国の一陣となった日本がミクロネシア諸島を統治することとなる。以降30年間サイパンは日本の統治時代が続く。この頃は、サイパン、ロタ、テニアン島では、製糖業、酒造業が一大産業になった。

そして、第二次世界大戦が勃発。マリアナ諸島は日本の重要な基地となった。

1944年、サイパン、テニアン島へ米国軍が上陸、激戦地となった。3万人いたっという旧日本軍はほぼ壊滅状態。民間人も約1万人がその命を落とした。そのとき、次々と身を投げた地がバンザイクリフ、スーサイドクリフ

サイパン、テニアンの陥落は日本の運命を決定的にした。飛行できる距離の短かった爆撃機でも、サイパン、テニアン島からであれば、日本まで飛ぶことができ、日本への空爆が始まった。19458月、テニアン島から飛び立ったB-29爆撃機が広島、長崎に原子爆弾を落とした。第二次世界大戦後は、アメリカが統治。サイパンはかつて日本で、今はいちばん近いアメリカ。(ガイドブック参照)

ビーチや、観光地、あちこちに戦争の爪あとが残るサイパンだったのでした・・・

 

 

 

  ラストコマンドポスト:洞窟状のくぼみをコンクリートで固めて造られた旧日本軍最後の司令部。側面には直撃弾による大きな穴がありました(右写真)慰霊碑や塔が建てられていました。

  

バンザイクリフ:追い詰められた婦女子や老人が次々と断崖から身を投げたという。日本にいちばん近い地で、祖国を思い「バンザイ」と叫びながら海の藻屑となっていった。死者は1000人とも1300人ともいわれている。80mの高さ。

戦没者の慰霊碑、観音像がたくさんたてられていました。

 

 

スーサイドクリフ

 

海の中に、車輪のようなものが落ちていました。

沖には沈没船もあるそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

沖に見えるのがテニアン島

ここから、B-29が飛び立った・・・

  旅行中、バンザイクリフでは、慰霊碑に書かれた文字を読んでいるうちに、悲しい過去を知り、写真など撮る気もなくなってしまいました。今のビーチリゾートのイメージからでは想像ができないような、悲しい過去の歴史を知る良い機会になりましたそして、戦争を二度としてはいけない!と実感。

また時間をみつけて、いろいろな地を旅をしたいと思います

給食 K