来年1月に発行予定の保健だよりでは、トイレット・コミュニケーション」をテーマにした記事を掲載する予定です。
その記事を作成するにあたり、私自身がちょっと幸せの気分になったのでちょっと書きます。
来月の保健だよりの記事では、東アフリカのあるコミュニティーでは、親が子どもの尿意や便意のサインを敏感に察知し、それに応じるという濃密なコミュニケーション(共同注意)を重ねることで、満一歳までに排泄が自立するという、元記事のあることを載せます。
この元記事を読んだとき、すぐに私の母のことを思い出しました。
母はよく、「うちの子はみんな、おむつが外れるのが早かった」「みんなおしゃべりが早かった」と話していました。
私自身も一歳半にはおむつが外れ、一歳前には話し始めていたと聞いていました。
私はそれを聞いて、正直「ふ~ん、だから?たまたま早かっただけでしょう」と、特に深く考えていませんでした。
しかし、排泄の自立と「共同注意」の記事を読んだとき、突然、中学生の頃の記憶が鮮明に蘇ってきました。
私が中学生の時に弟が生まれたのですが、生まれたての弟に母は、 「あら、寒いね~」「まぶしかったかな~」「おしり濡れたの~?」「お腹いっぱい、満足したね~」 と、ずーーーーーっと話しかけていました。
当時の私は、言葉を理解できない赤ん坊に話しかけても「わかるわけないじゃん」「なんの反応も返さない子に、よくそんなにずっと話しかけられるな」と不思議に思っていました。
また、私が自分の娘(母にとっては孫)の子育て中も、オムツをしていた娘に、「おしっこしたの?」「ウンチ出たの?いっぱいでたの?すっきりしたね」と、やはり排泄のたびに話しかけていました。そしてその時は私に対して、「こういうことは言ったほうがいいかもよ」と軽くアドバイスをくれました。
今、あの記事を読んで、ハッとしました。
母が続けていた言葉かけは、単なる教育のためではなく、「この子を大切に思っている」という純粋な愛情が、自然とコミュニケーションになっていたんだと気づきました。
母はコミュニケーションとしてでなく、寒いね 暑いね、気持ち悪いね、気持ちいいねと本気で気持ちによりそっていたんだなとおもいます。
そんなふうにしてもらって、赤ちゃんだった私は安心をもらっていたんだとおもいました。
母は69歳で亡くなっています。もうこのことを直接確認することはできませんが、この記事を通して、私はどれほど母に一生懸命に愛されて育ったんだな そんなメッセージを再び受け取ることができたような気がしました。
排泄の自立や言葉の習得といった表面的な結果は、どうでもいいことです。
それよりも、私は母の深い愛情に包まれ、最も大切な愛着とコミュニケーションの土台を築いてもらっていたのだと、心からありがとうとおもいいます。
そんな深い愛を注いでくれた母に、私は娘の子育て中にこう言い放ったことを思い出します。
話しかけるとおむつが早く外れるかもよ~という母のアドバイスに、当時の私は『今のおむつは性能がいいの。
一生オムツをしている子はいないから、外出先でトイレットイレーーってなるの嫌だから、おむつは早くは外さない』と反論。
「あらそう」と母は何も言い返してきませんでした。母の子育ては、素直な私を育てるという点では成功していませんでした(笑)。
事務所 M